今日まで、どうしてかういふ問題が等閑に附せられてゐたか、どうして、優れた劇評家や、演劇学者が、此の点を指摘しなかつたか、寧ろ不思議なくらゐであります。  恐らく、希臘劇以来、天才名匠の手に成つた戯曲が、此の「劇的」と云ふ一点で、多くは、「及第点」に達してゐるために、或は、その「劇的」なる「印象」が、「芸術的」なる「感銘」によつて高められてゐるために、その区別がはつきりつけられなかつたかも知れません。然し、近代に至つて、「メロドラマチック」といふ語が既に冷笑を含んだ意に用ひられだしたではありませんか。「劇的」といふ言葉から、「お芝居式」といふ語を区別するやうになつたではありませんか。そしてソフォクレスにも、シェクスピイヤにも、コルネイユにも、シルレルにも、イプセンにさへも「メロドラマチック」な、「お芝居式」なものを発見して、それを弁護しようとするものがもうないではありませんか。  言葉に拘泥するやうですが、こゝで論者は、所謂「劇的」といふ語から、「戯曲的」乃至「舞台的」といふ語を区別したい。さもなければ、「劇的」といふ言葉の意味を、新しく定義する必要があると思ひます――少くとも芸術を論ずる場合に。  これから、戯曲が――人生の劇的表現であるところの戯曲が――真に芸術的であり得るために、如何なる要素を具へてゐなければならないか、かういふ問題について議論を進めて行きます。 福岡 歯科

   


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