この悲愴な神聖な特徴こそはベートーヴェンの音楽に一つの徳を与えるものである。そしてこの徳は、聴者がこの音楽を他のあらゆる音楽と比較してみる時に、始めておくればせに定義を与えようと思いつくところのものである。すなわち、それは、もしそう言っていいなら、「直接性」である、「心から心へ!」の*。 *原注――人の知るごとく、これは彼の『荘厳な弥撒曲』の Kyrie(ミサの初めの祈祷)の上に書いた言葉である。「心より来る! 願わくはふたたび心に帰れ!」(〔Vom Herzen! Mo:ge es wieder zu Herzen gehen!〕) 啓示を与えるものの心と、それを受け取る者の心との間に何の隔障もない。一つの贅言もない。感動の純粋な表現以上の、また以外の、一つの模様も、一つの飾りも、一つの強調もない。そうして一切が――表現も、感動も――この上なく直接で、この上なく簡明である……『フィデリオ』(一八〇四年)の後に彼が書いたとおりに「ますます簡明に」(Immer simpler)である。 もはや叫喚も、身振りも、雄弁もない!――ベートーヴェンは最初の一撃でそこに到達したのではなかった。革命と帝政との時代――英雄的な情熱と行為とが羽飾をつけて騎馬行列をしていたあの雄大な時代に生きた人間としての自己の性質に付着していたローマンチックな血気に対して彼はみずから戦わねばならなかった。ベートーヴェンの前半生の作品には、その最も高いものの中にさえ、崇高な『エロイカ』の中にさえ、なお帽子の羽飾のような自負的な装飾がある。けれどもベートーヴェンが齢を重ねてその精神が次第に敬虔になるにつれて、彼はその雄弁の華々しい衣を剥ぎ捨てた。もはや対話すべき対手としてただ神をしか持たない以上、大げさないい廻しなどは必要ではない。皆までもいわずに心が通じ合うのである。……「ますます簡明に!」(Immer simpler)本質をいえ! 他は沈黙せよ! 病院薬剤師求人ランキング 市立長浜病院
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