旧時代の観客は、又、戯曲そのものの人生的意義や、人物そのものの性格的興味や、舞台そのものの劇的魅力や、さういふものよりも、所謂贔屓役者の「見せ場」を期待し、ただそれだけで好い心持になつてしまふのだから、俳優も、部分的技巧に全力を尽すのは当然であり、その点で傑出しさへすれば名優の名を擅にすることができたのである。さういふ時代の俳優に「頭」がなくてもよかつたのは寧ろ当然である。 感性と知力とが俳優の才能を決定するものであるとすれば、その才能を発揮するための「道具」は声と柄と記憶力である。 所謂美しい声は、必ずしも「良い声」ではない。 これは恰も、所謂「美しい容姿」が必ずしも、俳優の第一資格でないのと同様である。 発声の自由と声量の豊富、その上に、他の肉体的条件に適合した「声の質」を必要とする。この適合といふ意味は、常に例へば肥満した体格には太い声といふやうな皮相な観察を基礎にしたものではないのは勿論である。寧ろ、その役柄を主にして、場合場合に判断さるべき性質のものである。 悪い声を良く聞かせるのは、俳優のまた一つの力である。その力は、声以上の魅力であるに違ひない。この例が古今東西を通じて少くない。 表参道の美容室
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