試みに、虚心坦懐に、周囲の人物を心に想ひ浮べてみよう。それらの人物に直接話しかける時、われわれは、その社会的地位、職業、自分との特殊関係の有無、年配のちがひ、身分風体、などによつて、ほとんど応対の調子をまつたく変へてかゝるのが普通である。調子がいくぶん変るといふのなら、それはまだ自然かも知れない。しかし、まつたく変るといふ変りやうは、それらの相手のどれにもひとしく通じる筈の土台の感情といふものがどこかへすがたを消してゐることを明らかに示すものである。 われわれ日本人は、どんな人物に対しても、その人物が「目上か目下か」をまづ気にかける。その結果、目上とみればなにもかもが目上を標準とし、目下とみるといつさいすべてが目下の扱ひといふことになる。 つぎに、相手は自分にどれだけのことをしてくれる人物であるかを素早く見てとらうとする。云ひかへれば、応対の呼吸をその計算のうへにおくのである。もちろん、つむじ曲りもなくはない。虫の居どころで剣つくも喰はすであらうけれど、相手を単なる取引の相手としてみる見方に変りはない。浅草の美容室
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