それにしても、日本の現状を憂ふるものの眼に、混濁したこの二つの流れは、その源を一つにしてゐることがおぼろげながら察せられなくもない。そして、その源をこれと指し示す明確な言葉を私はさがしあぐねてゐるのである。 なにかしら、あるかたちをもつたもの、わかるものにはわかつてゐる筈の特殊なニュアンスをおびた現象の如きものである。 強ひて云ふならば、人間対人間の相互関係に於けるどうにもならぬ「不自然さ」、われわれの対人意識のなかにみられる一種の感覚の欠如とも名づけ得べきものである。 * われわれは、どういふ人間に対する場合でも、その相手をまづ「一個の人間」としてみる前に、その「人間」に附随した様々な条件、その人間を他の人間と区別する属性の方をそれだけとして極端に重くみる傾向がはなはだしい。 このことは、ほんとによく考へてみないとわからない。それが普通のことだと思つてゐるものにはなほさらさうである。人間を「人間」としてみるといふことは、人間を抽象化してみることではない。また、「人間」以外のいつさいのものとの識別といふやうな単純なことでもない。そもそも、「一個の人間」とは、様々な条件によつて他と区別され得る「何某」のことではないか、といふ反駁にも答へなければならぬ。それはそれでいゝのである。その何某は、如何なる属性によつて他と区別されようとも、もともと「人間」であることが第一の前提であり、その意味では他の誰かれとひとしい運命のもとに生き、その本性だけがわれわれを無条件に結びつけるのであつて、「何某」であることによつて、自分を含めた他の如何なる人間とも本質的変化を生ずるものではない。さういふ「一個の人間」を如何なる場合にも、心の底でまづ受けとる習慣がわれわれには根本的に欠けてゐるといふことを云ひたいのである。大山駅ハッピーロード内の美容院
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