ことに彼が唯一の保護者とも申すべき称徳天皇崩御後までも、彼は自衛の道を講ずる事なく、晏然陵下に廬を結んでこれに仕え奉り、今に諸臣が皇嗣として自分を迎えに来るであろうかと、その僥倖を冀うてボンヤリしていたというに至っては、いかに彼が時勢に暗かったとは言え、むしろ滑稽千万な事ではあるまいか。彼はそもそも何を恃んでそんなに平気でいられたものであろう。否彼がさきに法王の位におり、服飾供御天子に准じて、政巨細となく決をこれに取るという様に、諸大臣の上に立って傲然と政治を見ているをえたという事からして、臣民出の一比丘としてはまことにおかしな次第ではないか。 申すまでもなく、我が皇室は万世一系天壌無窮にましまして、いかなる場合にも臣籍の者がとってこれに代ろうという様な思想が起りえたとは信ぜられない。いわんや帝権の最も盛んな奈良朝時代において、道鏡に限ってどうしてそんな問題が起りえたであろう。これは我が国民思想の上からも、特にその時代思想の上からも、断じてあるべからざるものである。すなわち自分にとっては解しえざる最大の疑問であるのである。青山エリアでツヤ髪がおすすめの美容院
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