御館藤原氏すでに俘囚たり。その族人また実に同族ならざるべからず。『吾妻鏡』文治二年八月十六日条に、西行のことを叙して、「陸奥守秀郷入道は上人の一族なり」とあり。西行は俗名佐藤則清にして、みずから秀郷朝臣以来九代嫡家相承と称する弓馬の家なりしなり。奥州より出でて源義経に従いし佐藤継信・忠信また秀衡の一族なり。同書文治二年九月二十二日条に、「佐藤忠信者鎮守府将軍秀衡近親者也」とあり。しかもこれらは皆立派なる武士として世に認められたりしなり。これ一例なり、もって他を類推すべからずや。  御館藤原氏が俘囚として、もしくは夷狄として認められたりしことは、平安朝末の記録のひとしく記するところ。源頼朝、征夷大将軍に任ぜられて、これを討伐す。名実相副うものなりといわざるべからず。しかして鎌倉の記録たる『吾妻鏡』、また実に陸奥・出羽の両国が夷の地たることを認むるなり。しかるにもかかわらず、本書を始めとして、鎌倉時代の記録文書、一もこの敗軍の将たる泰衡らのことを記するに、夷をもって貶称するものあることなし。これ後世の人々が、一般に彼らの俘囚たることを信ずるを難んずるゆえんなれども、つらつら思うに、ひとり則清と継信と忠信とのみならず、堂々たる武士の中にも、これと出自を同じうするもの少からず存し、しかして当時においては、もはや彼らを夷族としては認めざりしものにてもあるべし。ことにその家人・郎等など比較的下級に属するものの中には、ことにこの族多かりしものと察せらる。徳川時代に至るまでも、鬚奴の称ありて、武家の従者はなお余五将軍の郎等、太郎介と同じく、鬚多きをもって可しとせしなり。けだし夷すなわち毛人を理想とせるものなるべし。武士と夷とその相関係するところ、由来多しといわざるべからず。高田馬場の美容室、美容院

   


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