わが国に、もし、正当な意味におけるデカダンスの時代があつたとすれば、それは恐らく、たゞ徳川中期以後の江戸文化の腐爛期のみではないかと思ふ。 大正末期の一時代が、ついで、やゝ部分的なそれらしい現象をみせてはゐるが、非常に手軽な、むしろ、デカダンスの上滑りといふやうなものにすぎず、まして、現在の世相は、およそそれとは根本に於て異つた、文字通り、虚脱より来る混乱、人間としての矜りの喪失といふ、単なる一時的醜態暴露とみればよいのである。 しかし、それだから、事は簡単だといふのではない。たゞ、デカダンスなどといふ、いくぶん意味ありげな言葉でこれを批評するのは、ちよつと座が白けるやうな気がするたぐひのものだといふに止まる。 その証拠に、いかなる階級の生活のなかにも、真に「精神の苦悶」と名づけ得るやうなものはほとんどみられず、さういふ叫びは何処からも聞えて来ない。言語道断なみすぼらしい風俗の横行はあつても、意識的に羽目を外した行動の人目をひくやうな闊達さもなく、まして自ら「地獄」行きをもつて任ずる意気軒昂たる青春の姿もみあたらぬ。 二、三の文学作者が、それらしい意図をもつて珍奇な選材をえらんでゐることはわかるけれども、それが作家の精神のどの程度の表白になつてゐるか、私にはまだ見当がつかない。或は、それをにはかにデカダニスムの発芽と断じるのはまだ早いのかもしれぬ。大塚の美容室カット2700円!
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