またこの事件について最も反対側から憎まるべき筈の習宜阿曾麻呂(註一)が、道鏡失脚後の新政において続々栄転した形跡のある事や、その反対に最も多く賞せらるべき筈の和気清麻呂、法均の姉弟が、その当時割合に恩賞に預らなかった事や、その他称徳天皇の宣命の中にお述べになったお言葉の中などにも、表面にあらわれただけの事実では、到底解し難い問題が甚だ多く存するのである。 しかるにこれらの多くの疑問のすべては、道鏡が皇胤(註二)であったとの旧説を是認することによりて、ともかくも或る程度まではことごとく解釈しえらるるのである。 三 右の疑問の解決と皇統の尊厳 この事は実は自分の創見ではない。去る明治二十年代において故田口卯吉博士が、その経営の雑誌史海の誌上で既に多少の解決を試みられかけたのであった。しかるに当時その説には反対説が多く、博士も遂に大成されずに中止されてしまったのであった。けだし当時田口博士は道鏡の素性に関する続日本紀の文に、河内の弓削氏の人であるという事、彼の先祖に大臣があったという事などある記事について、適当なる解釈を下しえられなかった為であるらしい。錦糸町の美容室イメチェンをご提案
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